「慶應−川崎エイジング・スタディ」研究代表
慶應義塾大学教授 高山 緑
初冬の候、皆様におかれましては、益々ご壮健のこととお喜び申し上げます。
新型コロナウイルスに罹患された方には心よりお見舞い申し上げます。一日も早いご回復を祈念しております。
本日は、慶應−川崎エイジング・スタディ(The Keio-Kawasaki Aging Study)のニュースレター「K2スタディだより」第8号をお届けいたします。第8号では、慶應-川崎エイジング・スタディと海外の調査から、記憶とレジリエンス(しなやかな回復力)について興味深い調査結果をご紹介いたします。ぜひ、お楽しみいただければ幸いです。
本研究も開始から7年目を迎え、研究グループのメンバーにも変化が生じています。本研究の主要メンバーの一人であり、皆様のお問い合わせも担当しておりました慶應義塾大学の石岡良子先生が、今年8月よりインドのニューデリー郊外にある大学(O.P. Jindal Global University)の講師に就任しました。世界各地から教員が集まる国際性豊かな大学です。石岡先生は研究メンバーの一員として、活動の場を日本だけでなく、海外にも広げることになりました。私たち研究グループも、今後「国際チーム」として、共に頑張れることを楽しみにしています。
もう1つご報告があります。やはり主要メンバーのお一人である東京大学高齢社会総合研究機構の菅原育子先生のご所属が変更になりました。今後も東京大学高齢社会総合研究機構の研究員として、また本研究メンバーとして活躍いただきますが、本年4月から西武文理大学サービス経営学部准教授に就任しました。これまでの研究者としての豊富な経験を生かしながら、学生の教育により一層積極的に関わる立場になりました。
研究メンバーの一人ひとりにも新しい変化があります。新しい教育・研究現場での経験がそれぞれの成長につながり、今後、さらに私たちの研究・実践を深め、広げていかれたらと考えています。どうぞよろしくお願いいたします。
末筆になりますが、皆様と、皆様の大切な方々のご健康とご多幸を心より祈念しております。
「高次の記憶」とは?
私たちの脳にはさまざまな働きがありますが、今回は「高次の記憶」についてご紹介します。「高次の記憶」とは、自分の記憶力の特性についての認識です。たとえば、「私は記憶力がめっぽう弱い」といった記憶力全般の評価、「いつも何か買い忘れる」といった経験に基づく記憶の評価、「家の鍵は必ずここに置こう」といった記憶の失敗を防ぐ工夫などが含まれます。
なぜ「高次」かというと、自分自身の「記憶力」を、もう一人の自分が高い位置から俯瞰していると捉えるためです。高次の記憶は、「高次」と付くだけあって、記憶力とは異なる次元、より高度な脳の働きと考えられています。
どのような時に「高次の記憶」が働いているのでしょうか
一般に、「記憶」が働いている時は、過去のことを思い出したり、予定を思い出したりする時です。たとえば、朝起きて「今日は燃えるゴミの日」だと思い出すのは、記憶力のおかげです。一方「高次の記憶」は、記憶の失敗や間違いに気づいた時によく働きます。たとえば、「昨日は覚えていたのに今日は思い出せない」ことがあると、自分の記憶力にがっかりしたり、どうしたら上手く思い出せるのか考えたりします。このような時、「高次の記憶」が働いていると言えます。
このような「高次の記憶」の働きは、「記憶」と同じように、私たちの生活に大きく影響します。たとえば、病院に行く日をカレンダーに書いたりします。この行動の背景には、「高次の記憶」が働いています。つまり、「メモしておかないとし忘れることが多い」「だいたい思い出せるが、何か急な出来事が起こって忘れるかもしれない」など、普段の経験から自分の記憶力の特徴を判断し、記憶の失敗を防ぐことにつながっていると考えられます。
K2スタディの結果より
もう一つ例をあげます。たとえば、「記憶力は鍛えることができる」と認識することも「高次の記憶」の働きです。記憶力を衰えないようにする方法を知識として知っているだけでなく、意識的に認識している人は、できるだけ頭を使おうとしたり、活動的な生活を過ごそうと心掛けたりすると考えられます。もし「何をしても記憶力は低下する一方だ」と考えていたら、記憶力を保とうとする行動を継続することが難しくなります。
このように、記憶力の特性を見極めたり、自分の記憶力を冷静に評価したりすることは、記憶力の失敗を防ぐ行動につながり、円滑な日常生活をもたらすと考えられます。2020年1月頃に皆様にご回答いただいた調査結果からも、同じことが示されました。「自分次第で記憶力は改善される」と認識されている方、「過去の記憶をたいてい正確に思い出すことができる」と認識されている方は、「ご自身にとって大切な活動」をたくさんされており、さらに「心の健康度」も高いことが示されました。つまり、記憶力を維持しようと心掛けたり、自分の記憶力について過度に不安にならず、適切に判断したりすることが、活動的な生活の継続や気持ちの安定につながっていると考えられます。
「高次の記憶」を上手く働かせるには
しかしながら、「高次の記憶」を上手く働かせることの難しさがあります。それは、記憶に対する評価や考え方は自分の主観的な判断であるためです。 私たちは、自分自身のことであっても、自分の記憶力に対して過小評価したり、過大評価したりすることがあります。過小に評価しすぎると自信を失って何もしなくなるかもしれませんし、過大に評価しすぎると誤った行動につながるなどリスクを伴います。
適度に自信を持ちながら、自分の能力を的確に判断する方法として、気持ちに余裕を持ったり、起こった問題や自分の考え方の癖を振り返ってみたり、第三者から指摘してもらうことがあげられます。しかし、「高次の記憶」はあくまで自分自身の認識に基づくため、「高次の記憶」を高めることは、「記憶力」を高める以上に難易度が高いことかもしれません。
「高次の記憶」のことばかり考えているのも、日常生活に支障をきたす可能性がありますが、日々「気付き」を得て、普段の行動を見直す余裕を持ちながら、「高次の記憶」を上手く働かせて楽しい時間を過ごしたいですね。
(石岡 良子)
コロナウイルスへのしなやかな対処:シニアの方達の知恵
2019年、コロナウイルス感染症の患者が確認されてから、瞬く間に世界中に感染が拡大しました。当初、シニアの方の罹患率が高いことや、重症化するリスクが頻繁に報道され、ご不安に感じられた方も多かったのではないかと思います。また、長引く感染症拡大の中で、ソーシャル・ディスタンスをとることや、他者との交流が制限される日々が続きました。シニアの方たちの身体の健康だけでなく、心の健康への影響も心配され、多くの専門家がシニアの孤立や孤独、そして幸福感の低下に警鐘を鳴らしました。しかし、実際に調査をしていくと、シニアの方たちはコロナウイルス感染症に不安を感じながらも、上手に対応し、心の健康を良好に保っている方が多いことがわかってきました。困難な出来事に対して上手に対応し、回復する力をレジリエンスといいます。今、多くの研究者がシニアの方のレジリエンスに注目しています。
シニアの方達の3つの強み:人生経験から培われた知恵
シニアの方のレジリエンスに関する2つの研究論文(米国)を紹介します。1つは米国のフロリダ大学の研究者たちの研究です。彼女たちはシニアの方には3つの強みがあると言っています。1つは長期的な視点に立って現状を理解できることです。コロナウイルス感染症拡大も人生の中の1つの通過点と捉え、「この挑戦(困難)を乗り越えたら、また良いことがある」「成長できる」と前向きに捉えることが上手なことです。2つ目はこれまでの人生経験から「以前の経験と似ている」「あの時、こんな風にして乗り越えた」と思って頑張れることです。そして3つ目は自分のことだけでなく、子供や孫の未来のことを考えて「だから今、頑張ろう」と思えるひとが多いことです。
ニュースレター第7号で「私達の年頃は戦争のために集団疎開で親から離され、戦後は食糧難、いろいろ不自由を乗り越え、最後はコロナねと友人と笑っております」というお声をご紹介しました。このお便りからは、感染症の拡大を長い人生の1時点の出来事として捉え、これまでの辛く大変な出来事、そしてそれを乗り越えてきた経験も思い出しながら、今回の感染症拡大という状況も上手に受け止め、しなやかに対応されているご様子が伺えました。共感された方も多かったのでないかと思います。
レジリエンスに生活するための工夫
もう1つ研究を紹介しましょう。米国のオレゴン州立大学のイガラシたちは、コロナウイルス感染症拡大の中で、シニアの方たちが示した、しなやかな強さ、すなわち「レジリエンス」を調べています。彼女たちは、シニアの方たちが次のようなことを通じて、コロナウイルス感染症への不安や日常の閉塞感を低減していることを明らかにしました。
- 規則正しい生活(あるいは、やることを見つけて忙しい生活)を心がける
- 新しく楽しいことを始めてみる
- 今まで以上に(あるいは、今まで通り)健康に気をつける
- 家族や友人の大切さを感じる
- 地域への愛着を高める
K2スタディにご参加くださった皆様と同じように、海外のシニアの方達も人生の知恵や、生活の工夫をされながら、コロナ禍に対処されているのですね。感染拡大の再来に対する警戒は怠らず、一方で、もし再び感染が拡大したとしても、しなやかな対処をしていきたいですね。
(高山 緑)
K2スタディでみる「心のしなやかな強さ、回復力」
実はK2スタディでも、以前より「レジリエンス=心のしなやかさ、回復力」に注目してきました。「レジリエンス」は、長い冬の雪の下でも枝折れず、次来る春に向けて新しい芽を出す植物のように、一見すると非常に困難でストレスの高い状況にいても、しなやかに立ち上がり前向きに進んでいく、いわば人間の「底力」を理解する鍵になると考えられます。
さて、2016年に私たちが実施した調査では「これまでに困難を経験してきたので、これからも困難を乗り越えられる」「困難な状況にあるとき、たいてい苦境を抜け出す方法を見つけられる」という考えについて、皆様のお考えをたずねました。このように、困難を乗り越えることができるという信念は、レジリエンスの大事な要素です。
以下では、この質問に回答いただいた1,064名の調査結果をご紹介します。
およそ半数の方が、自身のレジリエンス(回復力)に自信をもっている
分析の結果、「これまでに困難を経験してきたので、これからも困難を乗り越えられる」という質問に49%の方が「とても当てはまる」「かなり当てはまる」と回答されていました(下の図)。同様に「困難な状況にあるとき、たいてい苦境を抜け出す方法を見つけられる」という考えについても44%の方が「とても当てはまる」「かなり当てはまる」と回答されており、約半数の方は自身の回復力にある程度自信をもっていることがわかりました。
レジリエンス(回復力)が高い人の特徴は
次に、これらの「困難を乗り越えられる」という自信が何と関連するのかを調べました。その結果、年齢や性別、教育歴等は関連がありませんでしたが、現在健康である人ほど、また経済状態が良い人ほど「自信がある」と回答する傾向がありました。
さらに調べると、現在の健康や経済状態の良し悪しに関わらず、次のような方ほど、困難を乗り越えられる自信が高いという関連が見られました。
- 日頃、家族や親せきの相談に乗ってあげている
- 日頃、家族や親せきのちょっとした手助けをしてあげている
- 「地域や近所の人が困っているときには互いに助け合うべきだと思う」という考えに賛同している
これらの結果から、これまでの人生経験の中で、家族や身の周りの様々な人を助け、また自分も助けられてきたという経験が積み重なることで、これからも何か困難なことがあっても乗り越えていけるだろうという自信につながっているのだと考えられます。
「情けは人のためならず」ということわざがありますが、まさに、人を助け支えることが、めぐり巡って自分が困難を乗り越える力になるのですね。
(菅原 育子)
編集後記
皆様、「K2スタディだより」第8号いかがでしたでしょうか。コロナウイルス禍となり1年半以上経過しますが、こうして調査結果をお届けし、皆様のご感想やご様子をおうかがいできる機会をありがたく思っています。
2015年に第1号を発行して丸6年が経ちました。これまで、調査や本誌のお問い合わせとして、石岡が担当して参りましたが、来年1月に、本拠地をインドに移すことになりました。そのため、本号より「お問い合わせ先」が変更となります。
K2スタディを通じて、皆様からさまざまなことを教えていただきました。全てのお声にお応えできず、至らない点も多々あったと存じますが、この場をお借りして御礼を申し上げます。
今後は、インドという異文化に身を置きながら、「老い」について考え、発信したいと思っています。K2スタディにも参加して参りますので、引き続き宜しくお願いいたします。
季節柄、どうぞご自愛下さい。
(石岡 良子)